川喜田半泥子

人柄は作風に似て、おおらか、のびやか。世間はその人を類ない陶芸家と呼ぶ。生涯に残した作品は茶碗を主として35000点。また、その人を稀有の実業家とみなす。津市の素封家・川喜田家十六代に生まれ、百五銀行の頭取として四半世紀、金融恐慌、世界大戦をかいくぐり、健全経営をまっとうした実力の持ち主だ。
偉大なる趣味人、川喜田半泥子。魅力的な人物であったと知る人々は、彼を追慕してやまない。

経済から芸術まで、あらゆることに一見識を有した半泥子。「食べること」もまた然り。その交遊関係の広さゆえ、さまざまな食文化と出会う機会も多かったであろう。
ハイカラな洋食も素朴な田舎料理も、好んで口にしたという。半泥子が足しげく通ったご贔屓の味処が、今も当時の味を守り続けてりつ、ときく。津市内にゆかりの老舗を尋ねた。

千歳山へ向かう坂道の途中、ひっそりと仕舞た屋の風情を醸す料亭がある。半泥子が足しげく通った「はま作」だ。昭和2年の創業。戦前は、分部町の旧川喜田家そばにあった。料理人の腕がよく、半泥子ご贔屓の店だったという。
「戦争の時、店の者が揃って広永へ疎開したんんです。そしたら半泥子さんが『はま作と一緒なら食いはぐれることはない』と広永へ移られたそうです。」

川喜田半泥子 - Wikipedia
川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年)11月6日 - 1963年(昭和38年)10月26日)は、日本の陶芸家・実業家・政治家。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」等。

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